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小熊英二『単一民族神話の起源』

今更ながら小熊英二著『単一民族神話の起源』を読む。

 

単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜

単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜

 

 小熊さんの著作は今まで何冊か読んだことがあったし、新聞連載などのライトな批評は拝見したことがあった。けれどちゃんとした学術論文というものはこの著作が初めて。(だって量がやばいんですもの…)

 

実際読み始めてまだ4分の1程度しか進んでいないが、早くも「これは大学の一年生の時に読んでおけばよかった」と後悔しているほどである。

特に歴史社会学を学ぶ生徒なんかは今著の序章だけでも読んだほうが良いと思う。そこで小熊はM・ウェーバーの名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を例に挙げ、歴史学社会学の違いについて言及している。

 

歴史学は、対象の限定を重視する。それに対しウェーバーのこの本では、時代と場所が限定されていない。(小熊 1995: 9)

 

つまり歴史学においては人や場所などを一つ限定して分析の対象とするのに対し、『プロ倫』(社会学)においてはカルヴァン(16世紀スイス)、ベンジャミン・フランクリン(18世紀アメリカ)、問題の出発点は19世紀末ドイツ東部の労働者の意識、比較対象はインドなど分析の対象が飛び飛びで狭い範囲にこだわらないというわけである。これがもし歴史学者が書いたものだとしたら、「ベンジャミン・フランクリンにおける経済倫理の思想史的研究」なんかになるのではないかとも述べている。

さらに小熊はこう続ける。

 

マクロ的な視点とミクロ的な視点というものは、社会科学のどの分野でも対立的に、あるいは補完的に内包されている。前者はラフスケッチであり、後者は細密画である。反論を覚悟してあえていえば、概して社会学は巨視的、歴史学は微視的に向かう傾向があるようだ。(小熊 1995: 10)

 

「反論を覚悟してあえて言うならば」という枕詞の通り、これには歴史学者社会学者双方に言いたいことがある人がいるだろうが私は彼の見方におおむね同意する。

つまりどういうことかというと、歴史学は「ある時代のある人物(あるいは現象)にスポットを当て深く掘り下げていく。上に述べたベンジャミン・フランクリンの例やほかにも「レーニンの帝国主義批判に見る社会主義観念」(いい例が思いつかない)なんかもあり得るかもしれない。それは歴史学が事実の解明を何よりも重視するからである。日本を例にとれば、戦前戦後において皇国史観を基盤とする日本礼賛などを実証研究で否定していったことが挙げられる。

対して社会学は一つの事例だけに収まらず、様々な事例を場所や時間的な境界も横断し分析していく。なぜなら社会学が目指すのはそれぞれの事例の背後にある論理や構造を解き明かすことだからである。

ただ注意しなければならないのはどちらの方法が正しいということではないということである。というよりもむしろ両者の長所を取り込み、補完的に援用していくことが不可欠であると述べられている。

私は大学で社会学を専攻しているが、卒論研究発表会などを見ると、このどちらかに傾きすぎているという論文が多いように思う(特に歴史社会学的分野において)。つまり社会学の諸理論を使ってそれに見合うだけの事象を抽出して理論武装したトンデモ論文(歴史学的検証の不足)や歴史の羅列だけに終わりそこから社会の何が見えるのかわからない論文(社会学的検証の不足)などである。

個人的には簡単な疑問・問題設定(それが正しいか間違っているかはどうでもいい)から出発し、歴史文献など一次資料などをとことん洗い出していき(量的・質的調査を含む)、最後に理論を用いてそれらの事象の検討から社会の何が分かるのか、および最初の問題設定がどうなのかを分析するというのが社会学(というか歴史社会学?)の一番のオーソドックスな手法だと思う。

 

ここまでの歴史学社会学の違いに関しては本著序章の数ページに言及されているだけだが、非常に根本的なものが詰まっていると思う。できれば歴史学社会学を学ぶ学生ができるだけ早い時期に読んだほうがいいと思う。(以上。自戒を込めて)

橋口亮輔『恋人たち』 苦さ9割、甘さ1割

かなり久しぶりにTSUTAYAでレンタル映画鑑賞。

 

恋人たち [Blu-ray]

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橋口亮輔監督作品『恋人たち』(2015)。二年前の作品だけど当時から劇場公開を逃して、ずっと見たくて仕方なかった作品。

橋口監督は『ぐるりのこと。』が初鑑賞作品だったんだが、その時心をわしづかみにされずっと追いかけていた。彼の描く人間像がどうしても自分及び自分の周りのだめな人間たちを連想させ、これが映画であることを忘れさせるほど作品に没頭していた記憶がある。リアリズムを追及し、ドキュメンタリータッチの作風は少し是枝監督なんかにも似てるかもしれない。

 

今回の『恋人たち』もそんな橋口節は健在で、どこまでも残酷な現実を淡々と描いていく。ストーリーの9割ぐらいは胸がふさがる思いで見ているのだが、やはりこれは監督のうまいところで、1割ほどユーモアを混ぜることでそれがオアシスのように心を穏やかにしてくれる。

劇中でも言及されているように日本は来たる2020年東京オリンピックに向けて現在着々と準備を進めている。監督はおそらくそうやってみなが上を向いて未来に向かっていく時代の片隅で蟠りを抱えたままくすぶっている人間がいる現状にスポットを当てたかったのだろう。

妻を突如通り魔事件で亡くし自暴自棄になっている夫、家庭の不透明な閉塞感から抜け出したいと願う主婦、ゲイであることを告げたことにより友人とギクシャクする弁護士。彼らはそれぞれ大なり小なり悩みや憂鬱さをかかえている。それは誰しも同じことだ。ただ彼らに足りないものはその苦悩を聞いてくれる人間(恋人たち)が周りにいることに気づかないことなのかもしれない。

特に妻を殺されたアツシは犯人を殺すこと、またはせめて慰謝料を支払ってもらうことを生きがいとしている。生活は全く豊かとは言えない。死んだように生き、町中の幸せなカップルを見てその幸せさに嫉妬し、自殺しようとしても恐れから死ぬことすらできず、妻の墓前に懺悔する。

しかし、彼の周りの人間はたびたび彼のSOS信号を受け取り、助け舟を出してくれている。ただ悲しいかな、人間は追いつめられると一人になろうとしてしまうものでそれにすら気づかないのである。

 

橋口作品の中では一番見てて辛いものがあるが、こういう現実があることを再確認すべきだなと思う。幸せな時はそのことを忘れるし、作中の登場人物たちのような状況に陥った時にこの作品を見たらたぶん救われた気持ちになると思う。